2019 アジアXCラリー 青木拓磨の挑戦!

2019.9.30

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拓磨が鈴鹿に帰ってきた!

2019年7月初旬、クルマ椅子のレーサー青木拓磨選手が再びホンダのバイクに乗り “鈴鹿の8耐を走る” というニュースが、日本中を瞬く間に駆け巡った。
 
“Takuma Rides Again” と題されたこのプロジェクトは、往年のレジェンド “青木3兄弟” の三男・治親氏による発案。これに長男・宣篤氏が賛同し、手だけでシフト操作も可能なバイクを用意、春先から準備を進めていたという。
 
台風6号に翻弄された今年の8耐で、実際に拓磨(以下敬称略)が走ったのは、7月28日・決勝日の朝。場内からは割れんばかりの拍手が沸き起こり、鈴鹿全体が感動の渦に巻き込まれた。

 

競技ライセンスの許可が下りない!

拓磨が鈴鹿をバイクで走るのは、実に22年ぶりのことだ。
 
1995、96年と全日本ロードレース選手権で2年連続チャンピオンを獲得した拓磨は、翌1997年に世界選手権GP500クラス(現motogp)にフル参戦。チーム・レプソルホンダからNSR500Vで出場し、最終戦オーストラリアではトップに肉薄する2位を獲得。表彰台3回を含む年間ランキング5位でシーズンを終え、来季も同じチームから参戦することが決まったのだ。しかし翌年2月のテスト走行中に転倒。脊髄を損傷し下半身不随になってしまった…。
 
その後、ホンダ・レーシングから助監督の仕事を与えられ、長男誕生など慶事にも恵まれたが、8歳からポケバイに乗り、レースを走ることでしか自己表現してこなかった彼にとって「走れない」ことは、精神的にストレスになっていた。
 
そして、再びレースの世界に戻ることを決した拓磨は家族を説得。JAFに競技ライセンスの申請を行った。ところが「体に50%の障害がある人には、ライセンスの発行はできない」という理由で却下されてしまう。
 
当初、拓磨はこの措置に憤りを感じていた。しかし「自分がケガをしたり、クラッシュした車内から速やかに脱出できなかったりすれば、JAFが責任を問われてしまう」。怒りの矛先はどこに向けたらいいのか。障害者であるというだけで優しく区別される日本のシステムに苦悩する日々が続いた。
 
だが拓磨は諦めなかった。そして周りには彼を支えてくれる多くの友人と関係者たちがいた。「知人の医師に同行してもらいながら、横転させた車両の窓から1分以内で脱出するビデオを録画し、レースにおけるメディカル体制の問題をクリア」(※)するなど、積極的に現状打破の活動を展開していく。
 
※参考:横浜ゴム ADVAN ホームページ 〜青木拓磨「あきらめない」後編
https://www.y-yokohama.com/brand/tire/advan/contents/a40_vol5_2/

 

競技者拓磨の復活とジアクロスカントリーラリーへの挑戦

そんな中、拓磨のライセンス問題にも明るい兆しが見え始め、2007年に運命の発表が行われた。それは、拓磨が10年の沈黙を破って行った競技活動再開の狼煙 “アジアクロスカントリーラリー参戦” の記者発表だった。
 
この時期、拓磨が受け取っていたライセンスは、ジムカーナなど同時に複数台がスタートすることのない “単走競技” だけのものだったが、時間間隔を開けてスタートするラリーもまた、出場可能なレースに含まれていたのだ。
 
この時、4x4MAGAZINEのインタビューに、拓磨はこう答えている。
 
「1997年10月のオーストラリア・フィリップアイランド。そこを最後に、僕のレースの記憶はずっと止まっていました。次のレースも出るつもりだったのに、テスト中のケガでそれが不可能に。失望感とジレンマ、悔しさばかりの毎日。でも、レースをしたい! というモチベーションだけはありました。
 
そんな時、ツインリンクもてぎでクレイ・レガツォーニ氏と話す機会があったんです。1980年のF1アメリカ西海岸GPでクラッシュし、クルマ椅子生活となった彼とは、悩んでいたポイントが同じでした。でもレースへの情熱はスゴかった。このオヤジに負けてなるものかって、かなり影響されました。
 
そして昨年、ラリーの記者会見でフラッシュを浴びた瞬間、オーストラリアGPの記者会見に文字通りフラッシュバック。最後のレースが10年前じゃなく、ほんの1週間前のことのように蘇ったんです。これがレースの魔力か…。その驚きは忘れようもありません。
 
気がつけばレースを始めて四半世紀。もう、自分とレースは切り離せないですね。日本では障害を負うことで、もう終わり、というイメージがあります。でも、とんでもない話です。僕の人生はまだ1/4でしたから! 残りの3/4のほうがずっと大切ですよね? そこで何を目指し、何を成し遂げるか。障害なんて関係ありません」 (4x4MAGAZINE 2008年10月号より)
 
そして2010年2月、拓磨はついにサーキットレースをも可能にする競技ライセンスを受け取った。「単走競技に限る」という限定が解除されたのだ。
 
ここからの活躍はご存じの通り。ホンダのシビックカップを皮切りに、スーパー耐久、GTアジアと多くのレースへ出場し、優勝を含む数々の実績を残してきた。さらに今年は “ル・マン” の前座レースも完走を果たし、来年はいよいよ、本戦への参戦である。

 

 

目標は「世界一のレースで勝つ」こと!

では拓磨はオフロードを忘れ、サーキットに戻ってしまうのか? そんなことはない。
 
拓磨が競技の世界にカムバックするにあたり、自分に与えた目標は「世界一のレースで勝つ」こと。もちろんその中にル・マン参戦が含まれているのだが、もうひとつ、2009年に挑戦し、リタイアしたダカール・ラリーへの夢も続いている。
 
拓磨は「中学生の頃からダカールラリーに出たかったんですよ。免許を取って初めて買った愛車も日産サファリなんです」という。自ら好んでクロスカントリーラリーへの参戦を望み、ステップアップの土台としてFIA公認のアジアクロスカントリーラリーを選んだのだ。
※参照:YouTube「4x4MAGAZINE」チャンネル
〜青木拓磨 2014アジアクロスカントリーラリーの戦い
https://youtu.be/chyccjSeHEk
以来、拓磨のアジアクロスカントリーラリー参戦は13年間、途中、2018年の休場を挟んで12回の長きにわたって続いている。
 
デビューは鮮烈だった。初出場の2007年、拓磨は10台以上のライバルをゴボウ抜きにする走りで一気に注目を集め、翌年にはクラス優勝。2011年には総合3位まで躍進した。

 

世界で最もタフなクロスカントリーラリー

このラリーは、速さだけで勝てるようにはデザインされていない。
 
WRCなどのスピードラリーと違って、事前のレッキ(ナビゲーションデータを取るための下見)は許されていない。むしろ前日夜に、初めて知らされるコースをぶっつけ本番で走ることに意味があり、ダカール・ラリー同様に冒険要素の強い競技といえる。
 
しかも、東南アジアのジャングルやプランテーションなどの生活道路を使ってコースが組まれているため、砂漠のラリーと違って分岐が格段に多く、ここが道か? と目を疑うほど狭い道や荒れ野、ガレ場が多数出現する。道路に開いている穴もまた、ハンパな数ではない。だから分岐を一箇所でも間違えば何分もロスするし、大穴を見逃そうものならサスペンションが壊れてしまう。そして毎日のように降るスコールの直後は道が泥沼と化し、車載ウインチなくして脱出ができないような状況に陥ってしまう。
 
つまり、ドライバーのスキルだけでなく、ナビゲーターのスキル、そして極悪路を含むオフロード走行全般にわたる高いスキルが要求される競技なのだ。もちろん、1日のゴール後にマシンを整備/修理するチーム力も重要。これら全てが噛み合ってはじめて上位に顔を出せる競技だけに、あの篠塚建次郎選手をして「世界で最もタフなクロスカントリーラリーのひとつ」といわしめるだけの難しさがあるのだ。

 

出場ラリー全戦を横浜ゴムのサポートで戦う

そんなアジアクロスカントリーラリーの魅力にどっぷりハマってしまった青木拓磨選手の、今年の走りはどうだったのか? 今年のラリーは7日間。タイからミャンマーへ至る総計2,300キロ(うちタイム計測区間800キロ)のルートが組まれていた。
 
マシンはトヨタ・ハイラックスの兄弟車として、東南アジアを中心に高い人気を誇る「フォーチュナー」。ハイラックスと同じラダーフレームを持つ本格派で、フロントに独立懸架、リアにリジッドのコイルサスペンションを備えている。エンジンは2.8リッターのターボディーゼル、四輪駆動システムはローレンジ付きのパートタイム式。拓磨の活動に共鳴したTRDインドネシアの手によって、サスペンションはクロスカントリーラリー用にストロークを増したものに改造され、レイズ特注の軽量ボルクレーシングホイールに、265/70R17のジオランダーM/T G003が組み合わされている。
 

タイヤについては、2007年の初参戦から2009年のダカールラリーの挑戦を含む全てのクロスカントリーラリーで、横浜ゴムがジオランダーブランドのタイヤでサポートし、拓磨は泥に強いM/Tを好んで使用してきた。
 
2017年に先代のジオランダーM/T G001から新型G003に変わった時は「とにかくトラクションが凄い。前に掻いてくれる力が増して、走る・止まる、といったひとつひとつの動作への信頼感が増した。その上でオンロードでは、静かにそして快適になっているのが印象的」というコメントを残している。
 
その時は今年と同じフォーチュナーで参戦し、総合6位、T1D(改造ディーゼル)クラス5位という成績。順位は2015年から順次上がり、今年はさらなるステップアップを目指していた。

 

応援し続けてくれる、たくさんの人々に囲まれて

拓磨はラリー直前に、タイ国内にある横浜ゴムのテストコース「TIRE TEST CENTER OF ASIA」にて走行テストを行い、その足で横浜のタイヤ工場「Yokohama Tire Manufacturing(Thailand)Co.,Ltd.」に表敬訪問するのが恒例となっていたが、今年はその現場も取材することができた(映像をご参照)。
 
実際に同行して感じ入ったことは「メーカーがサポートしている」という言葉では表しきれないほど、多くの人々がひとりの選手に期待し、そしてまた縁の下で支え続けていたこと。
 
そして、それを背負って走る選手自身の気持ちだった。横浜ゴムの大勢のスタッフの前で、必勝を誓うドライバーの背中がいつもよりずっと大きく映る。GPライダーの時代からこのプレッシャーと戦い続けてきた拓磨は、プロレーサーとしてともに共感し、そして喜びあうことが自らの進むべき道だと、分かっていたのだろう。

 

ライバルと戦い、ライバルと一緒に乗りきった今年のラリー

沢山の人に支えられ、大きな夢を背負いながら、拓磨はアジアクロスカントリーラリーに臨んでいる。今年は序盤のタイ・ステージでデイリー5位、4位と、1年のブランクを感じさせない素晴らしい走りを見せていたが、ドラマはミャンマーステージで起きた。
 
増水した渡河エリアが想像以上に深く、マシン突入時の水圧でシュノーケルの接続部に隙間が空いてしまい、全開状態だったエンジンが水を勢いよく吸い込んでしまった。これによりタービンを破損した拓磨のマシンはパワーを失い、続く極悪マッドヒルクライムで白煙を上げながらスタック。当日の完走車の中でほぼ最後尾、という残念なタイムを記録してしまった。

 

それでも拓磨がゴールできたのは、ゼッケン110番のFJクルーザー 山本則博/辻本隆志組のレスキューがあったから。彼らは「あきんど号」という名で、拓磨よりずっと長くアジアクロスカントリーラリーに参戦し続けているベテランだ。
 
極悪路を走破するクロスカントリーのスキルに関しては、出場チーム中トップクラスの腕前。そして、このラリーが互いに助け合うことなしには完走もおぼつかなかった “古き良き時代” を識るチーム。目の前でスタックする拓磨を、迷うことなく救出した。
 

その拓磨が、エンジン修理を終えて復活した最終日、まるで恩返しをするかのように他のライバルを助ける側に回っている。
 
拓磨が自ら望んでライバルを助けるのは、緊急時のドライバー兼マシン整備担当として12回のラリー走行に同乗してきた椎根克彦氏が知る限り、初めてのこと。ウインチによる救出作業を担当した椎根氏は、泥まみれになりながら、チームがまたひとつ成長したことを実感したという。
 
助け、助けられながらラリースト達は必ずゴールへ戻ってくる。タイムを競う上ではライバルでありながら、ラリーという大きな枠組の中では、皆が仲間になる。これこそが、アジアクロスカントリーラリーに参戦した者のみが知る「見えざる魅力」のひとつなのだ。
 
結果は、総合13位完走。
 
さすがに上位入賞の夢は消えてしまったが、来年に向けマシンの課題も明確になり、チームとしても大きく前進できた年と言えるだろう。来年はル・マン参戦が待ち受けている。そしてアジアクロスカントリーラリーで日の丸を掲げる夢もまた、オリンピックの年に期待したい。
(文:河村 大/写真:高橋 学、芳澤直樹、山岡和正)